ADHDエンジニアのL2キャッシュ

ADHDの能力を駆使して自由な発想を落としていくよ

ADHDについて

こんばんは。

である調でグダグダ描くのは飽きたので普通に記事を書きます。

 

今年の初めにADHDと診断された訳ですが、まずこれはなんぞやという話をしましょう。

 

ADHDとは和名は注意欠陥多動性障害と言われ、発達障害の一つです。*1

 

発達障害というのは先天的な原因で脳が一般人とは違った発達をしたために起こる障害のようです。

イメージはこんな感じ:

「おっ、てめーの頭普通じゃねぇな?」

「辛さisある」

 

発達障害の代表的な物は次のものです。

 

この中でADHDは注意力散漫と衝動的言動が主な症状でその他随伴する様々な特性を持っています。

 

ちなみに知能障害とは関係ないらしいです。

ADHDの診断に知的水準は関係なく、筆者のIQも120と正常の範囲内です。

 

発達障害の専門医はなかなかいないらしいので診断を受けようと思ったら病院選びは重要です。

僕は産業医に勧められて神戸大学附属病院で受診しました。(大学病院は紹介状がいるので注意してね)

 

===== ここまで知識 =====

 

でこのPassiveSkillなんですが割りかし仕事をする上で不便です。

幾つか特質があるので挙げていきます。

 

1. 時間間隔のズレ

これががかなり厄介で、10分という感覚が本気でわかりません。

日常生活ではそんなにタイトにスケジュール組んでないし、スマホのアラームをフル活用してるのでなんとかなってるんですけど、職場での対策は困ったものです。

この記事も書いてて10分経ったかなと思ったら30分立ってました。

特に過集中と呼ばれるモードに入ると、『時をすっ飛ば』された感覚に陥ります。学生時代には30分ぐらい頑張ったなー思ったら6時間ぐらい経っててビビりました。チュンチュン.....。

 

2. 気を逸らすのが容易い

割り込みが入ると気が容易く逸れます。具体的にはメールの受信通知、チャット通知、誰かのくしゃみ、蚊など。後アイデアが降ってきたときも割り込まれます。そして直前でやってた作業を大抵の場合忘れてしまうのででメモを読み返すことになります。つまり作業にならない。全部書いて対応するしか無いです。消えるので。まぁフォトショップもいつ落ちるかわからないからこまめに保存するじゃないですか。そんな感じでしか対策できていない現状です。

 

3. 注意を維持できない

してないです。考え事してて信号見てなかったり、高速道運転中にふと思いついたとがあって危うく事故りかけたり、いろいろな目にあっています。あれ?なんで生きてるんだ?

一度に一つのことしかやっちゃダメな人種なので複数作業が入ってくるとどっちかの存在を完全に忘れます。いやはや困ったものですね。眼鏡とスマホと財布がよく行方不明になるのもこのためだと思います。

 

4. 興味ない→スヤァ

あとスイッチ入らない作業だと尋常じゃなく眠いんですねよね、12時間寝た翌朝でも眠気が来るんですから生活習慣の問題じゃないです。なお舌を噛む、腕にペンを突き立てる、などの対策も無効化される模様。あれこれ眠気というより気絶じゃねーか?笑

唯一対策になっているのは立つことなので、興味ない作業は立って凌いでます。血流良くなるんですかね?ぐぐったところによるとこの特性は前頭葉への血流が低下するのが原因だそうなので関係あるかもしれません。

 

5. 人の話を聞けない

聞かないではなく聞けないです。正確には音として入ってきてるけど、単語としての解釈が追いつかない。

単語として解釈する作業に専念すると音として入ってきた情報を補足し損ねる。

仕方ないので 録音→解釈→録音→解釈 って処理をスイッチしてるので、こんな感じに聞こえてます。

「この間、友達と(解釈中)ケーキが意外と(解釈中)またいきたい」

問一:空欄には何が入るか答えよ。(配点0)

 

他にも色々有るけど忘れたので次に回します。

やっぱ紙に欠かないと忘れますね。

次回「紙にかけ!!」お楽しみに!(予告とは言っていない)

ソクラテスは死なない

パラレルワード、並行世界

その言葉の意味を知らないものは殆ど居ないだろう。(知らない人はGoogle先生に聞こう)

そしてどこかの世界においてかの哲人は不死身であるかもしれない。

 

論理には2つの種類が存在する。帰納と演繹である。

演繹とはより一般的な前提から特殊な結論を導出する論理であり、帰納は逆に特殊な事例の集合から一般的法則を導出するプロセスである。演繹論理のうち尤も高名なものが三段論法であり、「人間は死ぬ」かつ「ソクラテスさんは人間である」故に「ソクラテスさんは死ぬ」は余りに有名な例文である。

演繹には『前提が真であれば必ず結論も真になる』という重要な性質がある。では前提が偽なら結論はどうなるか?実は真偽どちらもとり得る。このような論理関係を「A→B」と記号で記したりする。Aが前提でBが結論で、「AならばB」といったりもする。
演繹とはAがわかっているときにBを求めるプロセスだ。

帰納とは逆にBからAを求めるプロセスであるが、原則的にBが真であってもAが真であると保証することはできない。
「なんでホタルすぐ死んでしまうん?」という問いに絶対的に正しい法則を得る手段はないのである。

上記のことを踏まえると、何らかの手段で前提を一致させないと、そもそも論理というのがまるで役に立たないということが分かる。
いかに緻密で抜けのない完璧な理論を駆使しても、前提が異なっていなければ同じ結論には到達しない。
議論が平行線になった場合、大半は前提を共有できて居ない。(若しくは一方が論理的に考える思考を持ち合わせていないかだ)
ゆえにこの場合はいかに自分が論理的であるかを説明すること、また相手の論理的欠陥を探ることにあまり意味はない。
まず持論を展開する前に共通した前提を合意する必要があるのだ。・・・・と思うだろう?

がそもそもの前提こそが間違っている。
即ち、「同じ結論に至るべき」という前提こそだ。
つまるところ事の真偽に以前に前提の一致性以前になぜ特定の議論をふっかけるのが趣味の人達は同一結論に固執するのかという話だ。
たしかに前提を共有しなければいつまでたっても平行線だ。
結論を出さなければならない会議の場ではそれでは困るだろう、しかし事件は会議室で起こっているわけではない。
双方の意見が平行線を辿っていても、お互いの行動が『直交』している限りそれは並行世界の出来事だ。
『人間は死なない』世界が隣にもう一つ有ったとして、目くじらを立てる程のこともあるまい。

ここは一つ多世界解釈でも平穏な心を取り戻そうではないか。

まず始めに言葉あり

「まず始めに言葉あり、言葉は神とともにあり、言葉は神であった」(ヨハネ福音書より)

聖書に関する知識は殆ど持ち合わせていないが、上記の一節は個人的に非常に気に入っている。

そして最初のエントリに相応しいと思い引用した。

(若干それに固執して開設から間が空いたのは反省しよう)

 

そう、まず初めに言葉があったのだ。

尤も自分はキリシタンでもなければ一神教徒でもなく、宇宙の始まりのエピソードに関しては物理学者の語るに耳を貸す派だ。しかしそれを差し置いてもまず初めに言葉あり、とはストンと腑に落ちるというか、真理をついていると思うのだ。認知心理学を齧ったことのある人には共感が得られるかもしれない。

特に個人的に評価しているのは"Logos"を『言葉』と訳した点であろう。

詳細はWikiっていただくにして、LogosはLogicの語源にあたり、論理・理性と言った意味も含有する。Logosはキリストであるとかいろいろな解釈が有るようだが、その辺の細かい議論は神学者に丸投げして、ただ『言葉』について考察するに、まさしく言葉とは論理であり理性そのものであると思うのだ。

言葉の本質とはまさしく論理である。論理とは言葉であると言ってもいい。論理を記述すればそれは言葉になり、言葉の構造とは即ち論理なのだ。聡明な人なら文法というものに考察が至るだろう。厳密な言い方をすれば、構文があり文がある。文は構文から導出され、構文は文の集合から同定される。興味深いのは文化的背景を無視して形式的に言語を定義した場合、おおよそこの世の記述可能なものは全て何らかの言語であるといえるところだ。実際にインターネットコンテンツが全て人工言語で記述されていることを考えればその表現範囲の広大さは実感いただけるだろう。(そうでなければCPUが解釈できない)

古のピュタゴラス学派は「アルケー(根源)は数である」と考えていたそうだが、論理機構を備えたものに着目していたという共通点はありつつも、言葉のほうが全てを記述するには優位であろう。言葉は再帰の機構を備える。故に無限を扱うことが出来るからだ。

言葉には人間の認知の上でも重要な意味を持つ。まずそもそもからして、名前のついていないものを我々は認識することができない。目の前に犬がいればああ犬だなとその存在を同定し解釈する事ができる。たとえ見ず知らずの生き物でも「なんか白くて、うねうねして、、、」と不気味がりながらもより表現範囲の広い言葉を組み合わせて対象を認識しようとする。それが全くこの世の言葉で表現できない『何か』であったら、我々はどうやってそれを認識するのだろう?

いや、超常的な存在にすら我々は『神』という言葉で区分して管理しているのだ。たとえ何事にも形容し得ないとしても、『形容し得ない』という否定の論理でその存在はある程度同定されてしまう。そういう意味では言葉に表現できないものはない。

さらに先程の形式的な言語の定義に立ち戻ると、おおよそ記述可能なこの世のすべては言語であるといえる。そしてそれらには文法がある。つまるところ、そもそも存在するということは即ちただそれだけで言語なのである。

ここまで思考が至り最初に立ち戻る。(ここではアルケーとすべきか?笑)

なるほど、まず初めに言葉があるわけだ。

そして万物は言葉であるのだ。

そしてこれからここに言葉を記そう。

What is This? - これは何?

はろー、にまさんだよ!

わりかし頭のなかで色々考えを巡らせている事が多いのだけれど、せっかくなのでファンタジーな頭のなかの一部を記録に残すことにしました。

プログラマーなのでプログラム的な話題も含まれる予定。