ADHDエンジニアのL2キャッシュ

ADHDの能力を駆使して自由な発想を落としていくよ

『時は加速』する

11月ももう半ばを過ぎたということで、「えっもう2016年もう終わるの?」と驚きを隠せません。天地創造がつい昨日のことのように思い出されます。

 

さて君らに計り知れないことでしょうが時は加速します。

同じ時間でも年を取った人のほうが時間は短く感じるというのはよく知られている事実のようです。その理由としてはこれまで経験した人生の時間に対する、『現在』の割合が少ないからという説が言われています。

 

まぁそういう学術的な話は置いといて、もっと身近な経験的な話として、社会人として働き始めてから時の流れはいよいよ加速されたなと感じます。

理由としては、やっぱり学生の間は学年という明確な区切りが用意されてるからかなと思います。毎年同じように過ごしていても否応なく次の学年への駒を進めることで生活に変化が生じていく。それぞれの一年には新規性があり長く感じるんじゃないかなと思います。留年した人はちょっと黙っててね。

しかし社会人になった後は自分から動かない限り環境自体におきな変化というのは起こらない。同じ一年を繰り返しているようで少しずつ進んでいく、そういう螺旋の力を失って時しまったがゆえに円環の理に導かれ、いつか見た『今年』を過ごすから早く感じるのではと思います。

I am a pen.

構文的に正しくても意味は通っていない。

もっともなことを言っているようで何も主張していない。

わりとあるあるな話。

 

さて中身の伴わない文章はどのようにして作れらてしまうのでしょうか?

さて今回話するのは物事の本質という重厚なテーマについて話してみましょう。

本質と言うのはまず何かを定義するにあたってまず考えるべきは本当に本質にはそれがそれと自己決定できる本質を、本来的に内在させているかということを考慮しないといけません。

あるものを我々が知覚認識する時、それは必ず表面的なものです。表面的は直感的であり定性的です。故に個人的で独断的です。

定量的な指標というのはそれ自体が測定というプロセスにより意識的に決定されることで対象の客観的な物理量を取得し、つまりそれは抽象化された、つまり実存とは切り離された概念へと当てはめることに相当します。ここで物事がより本質的であるためには概念化のプロセスというのは必要不可欠であるということがいえます。なぜなら本質とは相対的に静的であり、本質から動的に演繹された事象が表面的な現象であるからです。

そしてその演繹プロセスそのものが本質の本質であるとあるといえます。

なぜなら本質は本来的に直接知覚可能な量ではなく、本源的に知的創作物であることが自明であるからです。

ゆえにこそ私たちは本質を見抜くときに人間的なスキーマに頼らざる元来排除されるべき主観性が本当の意味で排斥されることはなく、それの最小化に務めることにこそ論理学の本質であるわけです。

だから私たちは本当の意味で本質を知覚するために、まず本来的本質性について考えなければならないです。

 

ほら中身伴ってなかったでしょう?

GTD初心者に告ぐ

長年GTD環境を整えようとしては失敗し、失敗し続け、それでも少しづつそれらしいシステムを構築してきた僕ですが、GTD導入にあたっての障害について語ろうと思います。

GTDが何か知らない人はこの辺を参照してください。

15分で分かるGTD – 仕事を成し遂げる技術の実用的ガイド | 開発手法・プロジェクト管理 | POSTD

 

さてGTDを表現する言葉には色々有ると思いますが、今回あえて一言で説明するなら『全ての気になることを管理するための完全なツールキット』でしょう。

INBOXで気になることを漏れなく収集し、それをカレンダーやTODOリストで如何にスマートに管理・維持するか?そのための手法をまとめたものがGTDです。

さて問題は『全て』を『完全』に管理すること言うのが目標なわけですが、行き練りそれを目指すと破綻します。よくやるパターンですね、道具だけ揃えてうまく使いこなせないと。GTDはシステムうまく回れば最強のシステムになるであろうことが想像できます。

そしてシステム構築が面倒くさくなって本をそっ閉じするか、途中で飽きて兵どもが夢の跡になるわけです。

というか全部導入すると毎日のレビューとか面倒で先延ばしにしてしまうことが目に見えてますし、実際先延ばしして破綻しました。

人間はそう簡単に習慣を変えられません。

というわけでまともなタスク管理を指定内最底辺の諸君らのためにレベル別導入手順を書いてあげたのでありがたく読むと良いでしょう。

おい、お前に言ってんだよ後からこれを読む自分。

 

レベル0 タスク管理をしていない

我々の出発点にして最底辺です。「あれ、これ今日までだっけ?」「来週なんか有ったっけ? 」とか言い始めたらあなたはこのタイプ。

今すぐINBOXに頭の中身を吐き出して、Googleカレンダーに書き込みましょう。

締め切りも含めて全部カレンダーにまとめましょう。

GTDについて聞きかじったからと言ってあれこれ新規にリストを作るのは辞めてください。どうせ来週ゴミになってます。

とりあえずこれで一月運営してください。

といっても大体の人は手帳なりカレンダーなりスマホなりでスケジュール管理はしてるのでこのレベルの人はあまり居ないと思います。

 

レベル1 カレンダーのみを使っている

 「今日は何するんだっけ」「何から手を付けて良いのかわからん」というあなたはこのタイプ。TODOリストを作ってレビューしましょう。GTD的にいうとNextActionに全部突っ込みます。

 

まずは100均で不透明の下敷と付箋を買ってきて。やることを全部そこに書き出します。重要度とかでいい感じに並べれるもんなら並べていただいて構いません。

オシャレなタスク管理アプリを導入しちゃったあなたはProjectとかディレクトリとかややこしい機能は使わないように。頭が爆発します。

 

重要なのは毎日レビューすることです。

TODOリストは放置するとすぐ死にます。寂しがりです。ウサギさんピコピコです。

レビューは朝か晩のどちらか(会社用のTODOの場合は始業時・就業時)に行います。

個人的には晩のほうがおすすめです。

それぞれのタスクの内容が頭に残ってるからです。

 

TODOリストの運用ですが朝レビュースタイルではその日やること、夜レビュースタイルでは明日やることをまとめておくとかなり捗ります。

毎日レビューする習慣がつくまで2週間ほど続けてください。

 

レベル2 TODOリストとカレンダーでなんとか運用できている

「これって今どういう状態だっけ?」とわかんなくなるタスクがあるのでは無いでしょうか?

あればそれはGTDで言うところのプロジェクトです。

そのタスクは完了するまでに幾つかステップが必要ですね?

TODOリストをProjectリストとNextActionリストに分けましょう。

 

でも大概のタスクってどこまでも細かくわけられてしまうんですよね。なので以下のものをプロジェクトとみなすのが良いかと思います。

・その日に完了しない

・自分の作業だけではない

・途中結果によってやることが変わる

 

ProjectリストとNextActionリストを分けることで何が便利かというとProjectリストを眺めるとどれだけのタスクが同時に進んでいるか知ることができます。

しかし調子に乗っていくつもプロジェクトを立ち上げるとNextActionリストが溢れかえって破綻します。無茶しやがって

なので重要度の低いプロジェクトは凍結させてリストの下の方に追いやって、優先度の高い数個のプロジェクトだけNextActionを生成するのがおすすめです。

 

レベル3 ProjectリストとNextActionリストとカレンダーで運用できている

 

多くの場合これで十分じゃないでしょうか。

個人的にはそこそこ満足しています。

ProjectリストにもNextActionリストに入らないものは「いつかそのうち」リストに追いやってますがこいつを何とかすることでもっとスッキリしそうです。

それでは頑張っていきましょう。

 

 

 

 

観測されない勇気 〜目的論と原因論の重ね合わせ〜

巷で話題のアドラー心理学、その代表的書籍である『嫌われる勇気』を先日購入しました。乗るしか無いこのビッグウェーブに!というには乗り遅れすぎて津波がチリで反射してもう一度日本にやってきたぐらいのタイミングですが、気にしないことにします。 

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

 

 

実はアドラー系の本は以前から何冊か読んでおり、内容的にはおさらいな感じで読んでいるのですが、『青年』『哲人』が煽り合...議論を交わしている対話形式になっているのが面白いところですね。

アドラー心理学を知りたかったら以下のサイトが面白くておすすめです。最近良く寝付けない人は本を買ってください。

【マンガ】アドラー心理学「トラウマなんて存在しない!」 池袋/心療内科/ゆうメンタルクリニック | ゆうメンタルクリニック池袋西口院~心療内科・精神科

でまぁ幾つかアドってるポイントが有るんですが、その中で『劣等感は主観的な思い込み』を取り上げて明後日の方向にサーフィンしようと思います。

 

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劣等感に関して書籍の中では次の例を使っています。

哲人は155cm小柄な男性です。比較的小柄ではあるが、それに自体に劣等性はない。身長について当人がどのような意味付けを施すのかが重要である。

つまり自分が人より劣っていると思っていると思うことは、全て自分がそう思ってるからであり、解釈の仕方でどうとでもなると。

いやぁいい話です。なのでこれからみなさんもどうのこうのという意識高いブログではありません。

 

ここで解釈とは何かという話に立ち返ってみます。

同じ『身長155cm』という入力情報を『解釈』した結果、劣等感という出力が得られる場合と得られない場合があるということです。ここで出力の違いを産んでいるのは明らかに『解釈』プロセスです。

すると有る特定分野の情報の集合Xとそれに対応する主観的感覚の集合Yを考えた時、『解釈』とはXからYへの写像であるはずです。

 

さらにこれをチューリングマシンでモデル化します。チューリングマシンとはコンピュータを極力単純化したモデルで、計算の基礎的な性質を考える場合に使用します。

先に述べた『解釈』プロセスはチューリングマシンモデルでいうところの内部状態と状態遷移規則により決定されることになります。さてチューリングマシンには様々な分類が有るが、人間の脳の記憶容量は明らかに有限であるため、内部状態数は有限であるはずです。また人間とはいえ物理現象であり、また量子力学的な影響を無視できるマクロ系の活動であるから決定論的に動作します。

更に状態遷移規則は人間固有の、若しくは個人固有のものである。しかし後の議論のためここでは人間固有の演算プロセスとなるように内部状態と状態遷移数の関係を調節する。

 

さてこのようにモデル化することで確かに同じ入力に対して多様な解釈が可能となりました。しかしこのモデルでは決定論的アルゴリズムを使用しているため内部状態によって解釈が固定されてしまうことになります。

この事象に対してのアプローチは次のものが考えられます。

  1. 『解釈』に一貫性はないが状態によって決定される
  2. 量子論による不確定性原理がプロセスが影響している
  3. そもそもチューリングマシンを用いたモデル化が間違いである

さて冒頭のアドラー心理学を支持する立場であれば1.を捨て人間の自由意志を死守したくなります。がここはあえて1.を選びなおかつ目的論が、人間の自由意志がなくならないケースについて考えます。

ポイントは『不可知性』です。

要するに人間の状態とそれに対応する行動は予め決まっているが、我々人間にはそれを知る手段がないと仮設します。それによって一意に決定できない行動の解が導出できれば、見かけの自由意志が決定論のもとでも導出できるのではないかと考えます。

次章では有限演算時間と有限メモリによる4次元情報量を求め、フレーム問題を定式化します。

(続きの記事を書くとはいっていない)

ADHDについて

こんばんは。

である調でグダグダ描くのは飽きたので普通に記事を書きます。

 

今年の初めにADHDと診断された訳ですが、まずこれはなんぞやという話をしましょう。

 

ADHDとは和名は注意欠陥多動性障害と言われ、発達障害の一つです。*1

 

発達障害というのは先天的な原因で脳が一般人とは違った発達をしたために起こる障害のようです。

イメージはこんな感じ:

「おっ、てめーの頭普通じゃねぇな?」

「辛さisある」

 

発達障害の代表的な物は次のものです。

 

この中でADHDは注意力散漫と衝動的言動が主な症状でその他随伴する様々な特性を持っています。

 

ちなみに知能障害とは関係ないらしいです。

ADHDの診断に知的水準は関係なく、筆者のIQも120と正常の範囲内です。

 

発達障害の専門医はなかなかいないらしいので診断を受けようと思ったら病院選びは重要です。

僕は産業医に勧められて神戸大学附属病院で受診しました。(大学病院は紹介状がいるので注意してね)

 

===== ここまで知識 =====

 

でこのPassiveSkillなんですが割りかし仕事をする上で不便です。

幾つか特質があるので挙げていきます。

 

1. 時間間隔のズレ

これががかなり厄介で、10分という感覚が本気でわかりません。

日常生活ではそんなにタイトにスケジュール組んでないし、スマホのアラームをフル活用してるのでなんとかなってるんですけど、職場での対策は困ったものです。

この記事も書いてて10分経ったかなと思ったら30分立ってました。

特に過集中と呼ばれるモードに入ると、『時をすっ飛ば』された感覚に陥ります。学生時代には30分ぐらい頑張ったなー思ったら6時間ぐらい経っててビビりました。チュンチュン.....。

 

2. 気を逸らすのが容易い

割り込みが入ると気が容易く逸れます。具体的にはメールの受信通知、チャット通知、誰かのくしゃみ、蚊など。後アイデアが降ってきたときも割り込まれます。そして直前でやってた作業を大抵の場合忘れてしまうのででメモを読み返すことになります。つまり作業にならない。全部書いて対応するしか無いです。消えるので。まぁフォトショップもいつ落ちるかわからないからこまめに保存するじゃないですか。そんな感じでしか対策できていない現状です。

 

3. 注意を維持できない

してないです。考え事してて信号見てなかったり、高速道運転中にふと思いついたとがあって危うく事故りかけたり、いろいろな目にあっています。あれ?なんで生きてるんだ?

一度に一つのことしかやっちゃダメな人種なので複数作業が入ってくるとどっちかの存在を完全に忘れます。いやはや困ったものですね。眼鏡とスマホと財布がよく行方不明になるのもこのためだと思います。

 

4. 興味ない→スヤァ

あとスイッチ入らない作業だと尋常じゃなく眠いんですねよね、12時間寝た翌朝でも眠気が来るんですから生活習慣の問題じゃないです。なお舌を噛む、腕にペンを突き立てる、などの対策も無効化される模様。あれこれ眠気というより気絶じゃねーか?笑

唯一対策になっているのは立つことなので、興味ない作業は立って凌いでます。血流良くなるんですかね?ぐぐったところによるとこの特性は前頭葉への血流が低下するのが原因だそうなので関係あるかもしれません。

 

5. 人の話を聞けない

聞かないではなく聞けないです。正確には音として入ってきてるけど、単語としての解釈が追いつかない。

単語として解釈する作業に専念すると音として入ってきた情報を補足し損ねる。

仕方ないので 録音→解釈→録音→解釈 って処理をスイッチしてるので、こんな感じに聞こえてます。

「この間、友達と(解釈中)ケーキが意外と(解釈中)またいきたい」

問一:空欄には何が入るか答えよ。(配点0)

 

他にも色々有るけど忘れたので次に回します。

やっぱ紙に欠かないと忘れますね。

次回「紙にかけ!!」お楽しみに!(予告とは言っていない)

ソクラテスは死なない

パラレルワード、並行世界

その言葉の意味を知らないものは殆ど居ないだろう。(知らない人はGoogle先生に聞こう)

そしてどこかの世界においてかの哲人は不死身であるかもしれない。

 

論理には2つの種類が存在する。帰納と演繹である。

演繹とはより一般的な前提から特殊な結論を導出する論理であり、帰納は逆に特殊な事例の集合から一般的法則を導出するプロセスである。演繹論理のうち尤も高名なものが三段論法であり、「人間は死ぬ」かつ「ソクラテスさんは人間である」故に「ソクラテスさんは死ぬ」は余りに有名な例文である。

演繹には『前提が真であれば必ず結論も真になる』という重要な性質がある。では前提が偽なら結論はどうなるか?実は真偽どちらもとり得る。このような論理関係を「A→B」と記号で記したりする。Aが前提でBが結論で、「AならばB」といったりもする。
演繹とはAがわかっているときにBを求めるプロセスだ。

帰納とは逆にBからAを求めるプロセスであるが、原則的にBが真であってもAが真であると保証することはできない。
「なんでホタルすぐ死んでしまうん?」という問いに絶対的に正しい法則を得る手段はないのである。

上記のことを踏まえると、何らかの手段で前提を一致させないと、そもそも論理というのがまるで役に立たないということが分かる。
いかに緻密で抜けのない完璧な理論を駆使しても、前提が異なっていなければ同じ結論には到達しない。
議論が平行線になった場合、大半は前提を共有できて居ない。(若しくは一方が論理的に考える思考を持ち合わせていないかだ)
ゆえにこの場合はいかに自分が論理的であるかを説明すること、また相手の論理的欠陥を探ることにあまり意味はない。
まず持論を展開する前に共通した前提を合意する必要があるのだ。・・・・と思うだろう?

がそもそもの前提こそが間違っている。
即ち、「同じ結論に至るべき」という前提こそだ。
つまるところ事の真偽に以前に前提の一致性以前になぜ特定の議論をふっかけるのが趣味の人達は同一結論に固執するのかという話だ。
たしかに前提を共有しなければいつまでたっても平行線だ。
結論を出さなければならない会議の場ではそれでは困るだろう、しかし事件は会議室で起こっているわけではない。
双方の意見が平行線を辿っていても、お互いの行動が『直交』している限りそれは並行世界の出来事だ。
『人間は死なない』世界が隣にもう一つ有ったとして、目くじらを立てる程のこともあるまい。

ここは一つ多世界解釈でも平穏な心を取り戻そうではないか。

まず始めに言葉あり

「まず始めに言葉あり、言葉は神とともにあり、言葉は神であった」(ヨハネ福音書より)

聖書に関する知識は殆ど持ち合わせていないが、上記の一節は個人的に非常に気に入っている。

そして最初のエントリに相応しいと思い引用した。

(若干それに固執して開設から間が空いたのは反省しよう)

 

そう、まず初めに言葉があったのだ。

尤も自分はキリシタンでもなければ一神教徒でもなく、宇宙の始まりのエピソードに関しては物理学者の語るに耳を貸す派だ。しかしそれを差し置いてもまず初めに言葉あり、とはストンと腑に落ちるというか、真理をついていると思うのだ。認知心理学を齧ったことのある人には共感が得られるかもしれない。

特に個人的に評価しているのは"Logos"を『言葉』と訳した点であろう。

詳細はWikiっていただくにして、LogosはLogicの語源にあたり、論理・理性と言った意味も含有する。Logosはキリストであるとかいろいろな解釈が有るようだが、その辺の細かい議論は神学者に丸投げして、ただ『言葉』について考察するに、まさしく言葉とは論理であり理性そのものであると思うのだ。

言葉の本質とはまさしく論理である。論理とは言葉であると言ってもいい。論理を記述すればそれは言葉になり、言葉の構造とは即ち論理なのだ。聡明な人なら文法というものに考察が至るだろう。厳密な言い方をすれば、構文があり文がある。文は構文から導出され、構文は文の集合から同定される。興味深いのは文化的背景を無視して形式的に言語を定義した場合、おおよそこの世の記述可能なものは全て何らかの言語であるといえるところだ。実際にインターネットコンテンツが全て人工言語で記述されていることを考えればその表現範囲の広大さは実感いただけるだろう。(そうでなければCPUが解釈できない)

古のピュタゴラス学派は「アルケー(根源)は数である」と考えていたそうだが、論理機構を備えたものに着目していたという共通点はありつつも、言葉のほうが全てを記述するには優位であろう。言葉は再帰の機構を備える。故に無限を扱うことが出来るからだ。

言葉には人間の認知の上でも重要な意味を持つ。まずそもそもからして、名前のついていないものを我々は認識することができない。目の前に犬がいればああ犬だなとその存在を同定し解釈する事ができる。たとえ見ず知らずの生き物でも「なんか白くて、うねうねして、、、」と不気味がりながらもより表現範囲の広い言葉を組み合わせて対象を認識しようとする。それが全くこの世の言葉で表現できない『何か』であったら、我々はどうやってそれを認識するのだろう?

いや、超常的な存在にすら我々は『神』という言葉で区分して管理しているのだ。たとえ何事にも形容し得ないとしても、『形容し得ない』という否定の論理でその存在はある程度同定されてしまう。そういう意味では言葉に表現できないものはない。

さらに先程の形式的な言語の定義に立ち戻ると、おおよそ記述可能なこの世のすべては言語であるといえる。そしてそれらには文法がある。つまるところ、そもそも存在するということは即ちただそれだけで言語なのである。

ここまで思考が至り最初に立ち戻る。(ここではアルケーとすべきか?笑)

なるほど、まず初めに言葉があるわけだ。

そして万物は言葉であるのだ。

そしてこれからここに言葉を記そう。